2019年年明け1回目のブログが面白くもない事からスタートしてしまいました。
1月は、父の命日、母の命日とあり普通なら法事をやらなければならないのか??
ということで調べた結果をまとめてみました。
父の17回忌
父の場合は、17回忌という時間の経過になってしまったので、ひっそりと心の中だけで執り行い何時もと同じようにお仏壇にお線香をあげる程度で終わらせました。
さすがに、父の兄弟もこの世にいる人は少なくなり、生存する兄弟とも交流がなく音信不通なので特に法事をやることは考えていませんでした。
母の3回忌
しかし、母の場合は、3回忌なので、どうしたものかと考えていました。
実際には、母の兄弟も高齢なので親族を交えて行う事は最初から考えていませんでした。
母の1周忌さえも、当初はやらないでおこうとおもっていた時期もありましたが、親戚の前例があったので同じように執り行いました。
自分の中では、3回忌以降は心の中で、ひっそりと行って終わらせようとおもいましたが、調べてみるとお坊さんを読んでお経を読んでもらうとか、家族で仕出しを食べて故人を偲ぶとかかいてありました。
寺への疑問
お金を払ってお坊さんを読んでお経を読んでもらうことくらいはできますが、自分的には凄い疑問があるのです。
その裏付けに、お寺の住職が短期で変わったり、最近の住職は住職らしからぬ若さと対応などで、
母の葬儀の時も事務的に進んで何とも言えない感じ
でした。
また、戒名、その他もすべてお金が必要であり、お寺さんとの関係自体疑問に思う事ばかりでした。
そんな疑問の中、とりあえず、年会費とお彼岸の塔婆などは通常通り支払っていますが、他は付き合いが無いし、付き合うつもりもありません。
お墓の管理も誰がやっているのかわからないような場所にあり、お寺さんが管理しているような感じではないので尚更、この程度の付き合いでいいのかと考えてしまいます。
法事ってなに?
ところで、法事って何なんでしょうか?
法事とは(Wiki様より引用) 本来の意味は、仏教において釈迦の教え(仏法)を知るということ。つまり仏法の要点・肝要を知ること。 その後、上記の用語が転用され、法事・仏事・法会などの儀式祭礼などの仏教行事一般のことをいうようになった。日本では、しだいに供養(追善供養)のことを指すようになり、その後一般的に死者を弔う儀式をさすようになった。法事(ほうじ)、仏事ともいう。 また死者を弔う儀式以外に、寺の創立記念や落慶(新しい堂宇の完成記念)や仏像の開眼などの慶事も含む。
つまり、日本では、追善供養の事を法事といっているらしい。
そして、ネットで検索すると、葬儀屋さんやそれを商売にしている記事がヒットして、親族を呼んで会食をして、引き出物を渡す。お坊さんを呼んでお経を読んでもらって謝礼を渡す。っていう流れになるようですね。
絶対にしっくりいかない!?
法事をやらなければ供養できない?
ネット検索から調べると、ちゃんとした法事をしなければ、故人がちゃんと生まれ変われないとか、仏になれないとか脅し文句が出てきます。
調べれば調べるほど、沢山の神様が出てきて、これじゃ毎日法事をしなければならないような感じになってきます。
でも、法事という歴史を見ると、中国から渡ってきて、日本で独自のアレンジがされているようです。更に、江戸時代までは富裕層以外は法事さえも無かったという記事もありました。
つまり、ひねくれた推測をすれば、
その名残が今も伝わり宗教法人は様々な税制恩恵と、洗脳された一般庶民から集金するためにお布施や戒名などの仕組みを作った。
そう考えるとしっくり行くんですけどね。
自分が考える法事
いづれにしても死後の世界は分からないし、亡くなった故人が、今を生きている我々の行いで運命が変わるという考えもしっくりいかない。
なので、私は、こう考えることにしました。
つまり、私の環境としては、お寺さんとの付き合いは、年会費、お彼岸の塔婆だけ。3回忌以降の法事に関しては、自分の行動で伝える。
父の命日にはお墓に行き、お線香をあげてきました。父の命日と母の命日が近いので一緒にしました。
そして、母の命日では、仏壇の前に、父と母が好きだった食べ物をお供えして、声を出しながら仏壇の遺影に向かって偲びました。
私が考えた3回忌法事は、これで終了としました。
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