シンガポールに気軽な気持ちで旅行に行き、リゾート地でもある「セントーサ島」のシソロビーチでリラックスしていましたが、せっかく近くに観光地があるようなので行って見ました。その観光地が「Fort Siloso(シロソ砦)」でした。
しかし、そこで見た歴史的な資料は日本人に関係する事であり、今まで全く意識してないことであったので驚きました。現地では重い空気からじっくりとは見てこなかったので、このブログを通じて自分なりに歴史を調べてみようかと思います。
まず、このセントーサ島で戦時中何があったのか!?
Wiki様で調べてみると下記のような事が記載ありました。
第二次世界大戦の1942年2月7日から2月15日にかけて、イギリスの海峡植民地のシンガポールで大日本帝国陸軍と連合国軍の間で行われた戦闘である。
2倍を超える兵力差を覆して、当時難攻不落と謳われたシンガポール要塞を日本軍が10日足らずで攻略した結果、イギリスが率いる軍としては歴史上最大規模の将兵が降参した。当時のイギリス首相であったウィンストン・チャーチルは自書で「英国軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏」と評している。
すげーじゃん日本!!って思っちゃいますが、Fort Siloso(シロソ砦)の資料をみてきているので、そんなに軽いノリにはなれないです。
実際に終戦が、1945年ですが、終戦から3年前の戦いで日本からはるか離れたシンガポールで戦っていたわけです。なんで、シンガポールにいったのでしょうか!?
本当に歴史に疎くて悲しくなりますが、第二次世界大戦ってなんで起きたの?ってことも知らないので時間がある時に調べてみたいと思いますが、今回はシンガポールの戦いに絞ろうかと思います。
(以下Wiki様資料を簡潔化しただけになります。)
シンガポールの戦いは、マレー作戦から始まっており、1941年12月に、日本軍がマレー半島に上陸し駐留するイギリス領インド帝国軍(オーストラリア軍よび幾つかのイギリス軍大隊を含む)を打ち負かした。マレー沖海戦においてもイギリス軍の戦艦を撃沈させ勝った。
1942年1月に入り、クアラルンプールを占領した日本軍は、難攻不落の要塞と考えられていたシンガポール島に向けてマレー半島を進撃した。
つまり、その勢いで占領することが難しいとされたシンガポール攻撃の為に進撃していったということでしょうかね。戦争とはそういうものなのでしょうか!?
1月31日イギリス連合軍部隊がマレー半島撤退した。
2月3日には、日本軍によるイギリス軍の拠点などに対する準備砲撃が始まりイギリス空軍も応戦はしたが、空中戦で撃墜され後5日間日本軍の爆撃を阻止することはできなかった。
すごい勢いでシンガポールの戦いに突入していくようですが、日本軍はそんなに優勢に立っていたのかといえばそうでもなかったようです。
3万強の戦闘部隊で戦闘員の数。イギリス連合国軍の方は、8万5千の兵力があったが、日本軍に比べて戦闘の経験が無かったり訓練してなかったり、武器の装備の性能なども劣っていたので戦闘に優位に立てたようです。
2月8日日本軍はジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ上陸
2月10日日本軍はブキッ・ティマ地区への総攻撃を開始しオーストラリア部隊を中心とした守備隊と激戦が繰り広げられた。
2月11日ブキッ・ティマ地区は日本軍の手に落ち追い詰められたイギリス軍はシンガポール市街の外縁部に最後の防衛線を敷いた。
日本軍はブキッ・ティマ地区を、連合軍の弾薬と燃料の貯蔵のほとんどとともに占領しており、この地区を占領したことで主要な水の供給源の支配権も得ていた。
ただ、自軍の補給物資が極度に減少したことを知り、山下司令官はパーシヴァル中将に「無意味で絶望的な抵抗を中止するよう」呼びかけた。
日本軍の2日間の戦いを耐え抜いたが・・・。
2月13日連合軍はさらに追い込まれ、イギリス本土の上級司令部はパーシヴァルに非戦闘員の被害を最小限度に食い止めるため降伏するよう指示した。
パーシヴァルは最初この指示に抵抗したが、結局上官の権威に屈した。
翌日も、残存する連合軍部隊は戦闘を続け、非戦闘員の被害は100万もの市民が避難していた連合軍が確保する地域が砲爆撃にさらされ増加し続けた。市の幹部たちはまもなく水の供給が絶たれるのではないかと不安が流れ始めた。
2月15日の朝、日本軍は連合軍の最終防衛線を突破した。
連合軍の食料と弾薬は、既に底をつき始めており、降伏を決意したパーシヴァルは日本軍と連絡を取り、フォードの自動車組立工場において両軍の最高司令官による降伏交渉を行う約束を取り付けた。
フォードの自動車組立工場に向かったパーシヴァルらイギリス軍の一行は、日本軍の山下司令官らとの降伏交渉に臨み正式に降伏した。
この時山下が返答を渋るパーシヴァルに「イエスかノーか」と迫ったというエピソードは有名。
戦争終結後に山下がアメリカ軍により戦犯として絞首刑に処せられる際に、アメリカ軍は大戦中日本軍の捕虜となっていたパーシヴァルを呼び寄せて死刑執行に立ち合わせている。
現在は、セントーサ島もリゾート満載の綺麗な島となりましたが、本当にすごい歴史があったんだという事をしりました。
自分は日本人ではありますが、シンガポールのような遠方で日本が戦争を繰り広げていたなんて恥ずかしながら初めてしりました。
それを知ったきっかけが、観光でたまたま、セントーサ島の「Fort Siloso(シロソ砦)」に行ったことであり本当にショックを受けました。
しかし、目を背けてはならない事であり、その歴史を知れば、二度と繰り返してはいけない事だということを理解することができました。
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